みなさんこんにちは!
野球大好きモルツです!
今夏の甲子園大会で次々と強豪校を撃破し、多くの人に感動を与えた大社高校。
今回はそんな大社高校を率いる【石飛文太監督】にスポットライトを当て、石飛監督の人柄や半生についてご紹介していきたいと思います。
石飛監督のことを知れば知るほど、今夏の大社高校の快進撃は必然的なものだったのだと思わされることになります。
ぜひ最後までお付き合いください!

- 名前はモルツ
- 野球歴は30年
- 学生時代のポジションは主に二塁手
- 小学校1年~高校3年までは、野球漬けの日々を送っていた
- 中学時代はシニアリーグに所属し、全国大会出場
- 高校時代、春は県大会優勝、夏は県大会準優勝の経験をもつ
- 現在は草野球やソフトボールを楽しんでいる
- 石飛監督の半生
- 石飛監督の人柄
- 石飛監督と選手の絆
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大社高校への憧れ

石飛監督は小学3年生から地元・出雲市のスポーツ少年団で野球を始めます。
野球と出会ってからの人生は、本人曰くまさに【野球漬けの毎日】だったと言います。
野球が大好きで、白球を追いかける楽しさに魅了されてからは時間がたつのも忘れるほど、野球に没頭していたそうです。
今から32年前の、1992年。
大社高校が最後に甲子園に出場した夏に、石飛監督と大社高校を結びつけるある出来事がありました。
当時、小学5年生だった石飛監督は、夏の甲子園2回戦で宇都宮南高校と試合を行う大社高校の戦いぶりをテレビで観戦していました。
そこで、自身が所属するスポーツ少年団の先輩がレギュラーとして試合に出場している姿を見て、大社高校への憧れを抱いたそうです。
また、その先輩が甲子園で安打を放つと、そんな気持ちは一層強くなり、「大社で甲子園に行く」と心に誓います。
この瞬間から、その後の石飛監督と大社高校を結ぶ運命の歯車が動きだし、32年後に日本中を歓喜の渦に巻き込む快挙を為し得ることに繋がったのです。
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指導者としての素質を持ち合わせていた中学時代

「中学生の中に大人が混じっている感じ」
当時の石飛監督の様子をこのように語るのは、石飛監督が大社高校の現役時代に野球部の監督を務めていた板垣さんです。
板垣さんが当時、石飛監督の在籍していた中学校の試合を視察に訪れると、そこには一際目を引く選手がいました。
その選手は、試合に出場しているのにもかかわらず、攻撃時には一塁ランナーコーチも担当し、走者が二塁に進むと今度は三塁ランナーコーチに場所を変え、指示を出していたと言い、その指示の内容が中学生とは思えぬほど、的確なものだったそう。
まさにその選手こそが、中学生時代の石飛監督だったのです。
その姿は、周りの状況を正確に把握し冷静に指示を送る、現在の石飛監督そのものだったようで、この頃から監督としての素質を兼ね揃えていたのかもしれません。
夢見た甲子園には届かず・・・

小学生の頃から目標にしていた大社高校への入学を実現した石飛監督は、自身を大社高校へと導いてくれた先輩のように、甲子園に出場し同じ場所で躍動するという夢を成し遂げるべく練習に励みました。
持ち前の元気とガッツでチームメイトを鼓舞し、当時、166cm・54kgという決して恵まれた体格ではないながらも、必死に監督の指導に食らいついていたと言います。
そんな努力もあり、最終学年となった頃には背番号4をもらうまでに成長。
しかし、1桁の背番号をもらいながらも実質控えの立場であり、試合には2桁の番号をつけた後輩選手が出ていたそうです。
チームも目標としていた甲子園出場の夢は叶わず、最後の夏は島根県大会ベスト8で高校野球を終えることになった石飛監督。
そんな無念と、果たせなかった夢を追うために教員になることを決め、石飛監督の第2の野球人生がスタートしたのでした。
教員として戻ってきた母校

教員を志した石飛監督は、姫路獨協大学に進学します。
そこでは、自身がプレイヤーとしてやり残したことをやり遂げるべく、準硬式野球部に所属します。
その背景には、小学3年生の頃から野球を始め、先輩の活躍に感銘を受け「自分もあの場所に立つ」と心に誓った甲子園出場という夢が関係していたのかもしれません。
儚くもその夢は叶うことはありませんでしたが、本人曰く、決してエリートのような人生ではなかったというプレイヤーとしての人生に踏ん切りをつけるための決断だったのでしょう。
その後、在学中に見事、国語の免許を取得した石飛監督は、県内の私立校・出雲西高校でコーチとしての土台を築き、2011年に満を持して母校である大社高校に戻ってきたのです。
教員、そして指導者として母校へ戻ってきた石飛監督はそこから5年間、母校の野球部でコーチを務めたのでした。
甲子園で快進撃を遂げるまで

その後、他校に転勤となった石飛監督は、野球部ではなく卓球部の顧問を務めました。
自身の身を野球以外の環境に置くことにより、今まで以上に様々な視野から選手を観察できるようになったと言い、もしかすると、この経験が今の石飛さんの監督としての人生を作り出したのかもしれません。
そんな経験を5年間積んだ石飛監督は、2020年から再度、大社高校に赴任することが決まります。
初めは部長という立場でありましたが、同年の8月より監督に就任すると、当時はサインプレーや練習メニューを細かく指示し、自身の考えの基に試合を組み立てる「管理野球」を徹底していたそうです。
しかし、なかなか結果を残すことはできず、2021年春は県大会の地区予選で初戦敗退、2022年の夏も県大会初戦で敗れ、これまでの自身の指導方法について見つめ直した石飛監督は、「監督として勝利のために何ができるのか」という部分について真剣に考えた結果、今までのやり方を一新することを決意します。
そんな経緯もあり、その後の石飛監督が最も重要視したのは、選手との信頼関係。
打撃練習では自らも外野の守備に就き、打者や周りの守備陣に声を掛け続け、雨が降る日には、昭和デーと呼ばれる守備練習を行い、選手と共にノックを受けて泥まみれになりました。
そんな成果が少しずつ実り、今夏の結果へと繋がっていったのです。
突如巻き起こった大社旋風
32年ぶりの甲子園出場がかかった島根県大会決勝の相手は、3年前の2021年に同じ決勝の舞台でノーヒットノーランを喫し敗れた石見智翠館。
リベンジを誓った試合前に、石飛監督が選手たちに送った言葉は、「もう銀色はいらないよな」というものでした。
この言葉に選手たちは奮起し、3対2で見事にリベンジを果たした大社高校は32年ぶりに甲子園への切符を手にしたのです。
自身が選手時代には果たすことのできなかった甲子園出場という夢を、監督という立場で成し遂げた石飛監督。
ここまでの道のりは決して平坦なものではなく、たくさん回り道もしたかもしれません。
しかしながら、選手を信じ共に戦い抜く姿勢を貫いてきた石飛監督だからこそ、達成できた快挙であることは間違いありません。
誰よりも選手を信じ抜く姿
大社、延長11回「ここでバント決める自信がある者、手を挙げろ」公式戦初出場でも志願の代打・安松、「サード側に決めてきます」グラウンド狭くて磨いた技(中日スポーツ) – goo ニュースより引用
今夏の甲子園で、最も人々の印象に残る試合と言っても過言ではないのが、3回戦の早稲田実業との一戦ではないでしょうか。
この試合、延長11回裏、0死1、2塁というサヨナラのチャンスで石飛監督が代打に送ったのは、島根県大会を含め、この夏初出場となる安松選手。
この場面で石飛監督が安松選手に対して送ったサインは送りバントでした。
3塁がフォースプレイとなる非常に緊迫した場面でしたが、安松選手はきっちりとサード側に送りバントを決め、結果的にこのバントがサヨナラ勝ちへと繋がることになりました。
実はこの安松選手の起用に関しては、石飛監督がベンチで、「ここでバントを決められる自信がある者、手を挙げろ」と、選手に問うたところ、真っ先に安松選手が手を挙げ、「サード側に決めて決めてきます」と答えたそうです。
その姿を見て、石飛監督は迷うことなく安松選手を代打に送り、安松選手は見事にその期待に答えたのでした。
試合後、この場面について問われた石飛監督は、「信じるだけでした」と答え、「そのバントを見て、どうでした」との問いに対しては、「泣けてきましたね」と、目頭を押さえながら語った石飛監督の姿に、思わず感動させられたという方も多いのではないでしょうか。
そんな石飛監督が選手と接するうえで最も大切にしていたことは、選手のことを真剣に親目線で考えることだそうです。
「親なら本気で子どもの将来を考えるし、本気で叱るし、良かったら褒める。エースだから、応援部隊だからとか、区別しませんよ。つまり、当たり前のことをしているだけです」
このように自身と選手の間柄を語った石飛監督からは、人柄の良さと選手たちからの人望の厚さが伝わってきます。
大社高校というチームがここまで見る者を感動させられる試合をいくつも繰り広げられた理由は、石飛監督の選手を信じる力があったからでしょう。
エースと共に終えた夏

準々決勝となった神村学園戦。
この試合では、前の試合までエースとしてチームを支え、計401球を投げてきた馬庭選手はベンチスタートとなりました。
その後、2対2の同点で迎えた5回、0死1,2塁の場面でマウンドに上がった馬庭選手は、内野ゴロの間に1点を失いますが、後続を打ち取りさすがの貫禄を見せつけます。
しかし馬庭選手は、7回に3連続適時打を許して4失点。8回にも追加点を許す形となり、2対8と神村学園に大量リードを許すことに。
このとき石飛監督は複雑な感情の狭間で揺れていました。
「本心としては、最後まで馬庭の投球を見ていたい。ただ、もう1つの本心は、これ以上投げさせたくない」
まさにチームの顔となっていた馬庭選手は、石飛監督にとっても特別な存在であったことは確かです。
そんな馬庭選手と共に過ごしてきた3年間の終わりが、刻一刻と迫ってきていることを薄々は感じていた石飛監督。
石飛監督が発した言葉からは、「最後まで馬庭で」という親のような気持ちと、「未来のある選手を潰すわけにはいかない」といった、監督としての気持ちの狭間で揺れ動いていた感情をうかがい知ることができます。
そんな中で、最後はベンチにいる3年生の意見も聞き、大社高校の夏を最後まで馬庭選手に託すことを決めた石飛監督。
「最後、馬庭に託しました。素晴らしい投球をしてくれました」
そう馬庭選手にねぎらいの言葉をかけ、大社高校の長い長い夏が終わりを告げました。
まとめ
今夏の甲子園が開幕した時点では、正直無名と言っても過言ではなかった大社高校。
しかし、そんな地元の県立高校が並み居る強豪校を次々と撃破していく姿はまさに、感動そのものでした。
そんな快挙の裏には、石飛文太監督という誰よりも熱く、誰よりも人情味溢れる存在がいたことを忘れてはいけません。
新たな歴史のスタートを切った大社高校。
今後、石飛監督が作り上げるチームがどんな名試合を見せてくれるのか、楽しみでなりません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また次回、お会いしましょう☆
- 石飛監督は小学3年から野球を始めた
- 大社高校へ進んだ先輩の活躍を目の当たりにし、大社高校への憧れを抱いた
- 中学生の頃から指導者としての素質を持ち合わせていた
- 大社高校時代、プレイヤーとしては甲子園出場の夢は果たせず
- 教員・指導者として、選手を信じ抜くことを原点に、今夏の大躍進を成し遂げた








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