https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/202101060000073.htmlより引用
みなさんこんにちは!
野球大好きモルツです。
今回は長らく巨人という常勝軍団のエースとしてチームを支えてきた菅野選手のエピソードについてまとめてみました。
過去に巨人の背番号18番を背負った選手といえば、堀内恒夫選手、桑田真澄選手などを思い浮かべるかと思いますが、現在そんな偉大な番号を背負っている菅野選手。
巨人のエースと呼ばれるまでにどのような道のりを歩んできたのか、そんな軌跡を振り返っていきます。
常についてまわる名門一家の肩書き
1989年、神奈川県で生まれた菅野選手は当時から野球選手になるという宿命を背負っているかのようでした。
叔父はジャイアンツの大スター原辰徳。祖父は東海大相模などの監督を歴任した名将・原貢。
そんな環境で生まれ育った菅野選手は、小学1年生の頃に叔父である原辰徳の引退試合を観戦したことがきっかけとなり、本格的に野球をはじめます。
当時からポジションはピッチャー。
6年生になる頃にはエースで4番を担うなどチームの顔として活躍します。
しかしながら当時の菅野選手は決して怪物級の選手ではなかったようで、球は速いが、コントロールが悪く、バッティングも当たれば飛ぶが、空振り三振も多かったという選手でした。
その後、地元の中学に進み軟式野球部に所属した菅野選手は、少しずつ才能の片鱗を見せつけることになります。
体は細いが堂々としたマウンドさばきを見せ、右バッターのアウトコースへキレの良いストレートを投げ込めるようになり、中学3年生の頃には最速124km/hのストレートを武器に、チームを関東大会ベスト8に導きました。
この頃には「原貢の孫」「原辰徳の甥」という評判が常について回るようになっていましたが、菅野選手はそんな重圧とも戦いながら、素晴らしい成績を残したのです。
東海大相模高校での挫折と経験
そんな菅野選手は神奈川県の名門、東海大相模高校に進学しました。
しかし、高校時代は苦悩続きの日々を過ごすことになります。
1年生の頃には右肩を痛め投げられない状況が続き、一時は野球をやめることも考えるなど苦しい時間を過ごします。
2年春にはチームが選抜出場を果たす中、ベンチ入りを果たすことはできずに甲子園の土を踏むことはありませんでした。
その後は、春季神奈川県大会を制し関東大会に出場するも、先発した2回戦で、後にヤクルトスワローズからドラフト1位指名される増渕竜義を要する埼玉の鷲宮高校に7対2で敗れるなど、苦しい日々は続きます。
さらに、2年夏には決勝で横浜高校に15対7で敗退。新チームとなった秋には準決勝で桐光学園に7対6で破れ、入学してここまで1度も甲子園の土を踏むことはできませんでした。
そんな状況で、甲子園を懸けたラストチャンスとなる最後の夏を迎えた菅野選手。
この大会の準決勝、対横浜高校戦でのあるプレーによって菅野選手は注目を浴びることになりました。
4回に3点を先制した東海大相模は、なおもツーアウト1・3塁のチャンスで打席には菅野が立ちました。しかしフルカウントからワンバウンドとなるスライダーにバットを出し、スリーアウトチェンジ。ピンチを切り抜けた横浜高校のナインがベンチに引き上げていく中、「走れ」、東海大相模の監督、門馬の声が球場に響き渡りました。
実は振り逃げが成立しインプレーが継続されているにも関わらず、両軍ともベンチに引き上げようとしていたのです。
それに唯一気付いた門馬の声で、菅野選手は訳も分からずダイヤモンドを一周しはじめました。
恐らく、この時点で門馬の意図を理解していた人間はいなかったのではないでしょうか。
結果的に振り逃げによる3得点が決勝点となり、東海大相模は6対4で勝利し決勝に駒を進めることになりました。
そのときの映像はこちら↓
菅野選手にとって初の甲子園まであと1勝。
しかし菅野選手は準々決勝をほぼ1人で投げきり、横浜高校との準決勝でも168球を投げていました。
その影響もあり、準決勝後には決勝戦はリリーフでいくと門馬から告げられていたそうです。
「リリーフなら胴上げ投手のチャンスがあるかもしれない」
そんな夢模様を思い浮かべながら迎えた決勝戦当日、菅野は門馬から衝撃的な言葉を告げられます。
「やっぱり先発でいってくれ」
結局菅野選手は決勝戦でも9回を1人で投げ抜き、169球、被安打13、10失点でチームも敗退し、1度も甲子園の土を踏むことはできませんでした。
後に菅野選手はこの決勝戦を振り返り、「正直、早く終わってほしいと思っていた。こんなに苦しいのは、早く終わってくれと。死ぬと思いましたもん」と語っており、やはり登板過多による疲労の蓄積は想像を絶するものだったそうです。
この3年間の成績だけを見れば、決してエリート街道をひた走るような順風満帆なものではなかったのかもしれません。
しかしながら、入学当初は周囲のレベルの高さに驚き、練習についていくことが精一杯だった菅野でしたが、ひたむきに練習に取り組み、高校3年時にはMAX148km/hをマークするなどプロのスカウトにも注目されるほどの投手に成長しました。
そこにはもう「原貢の孫」「原辰徳の甥」といった肩書きなど必要なく、純粋に菅野智之という選手の価値を自身の力で証明しました。
ただ、プロの世界でやっていけるかどうかが半信半疑だった菅野は、文句なしでドラフト1位で指名される選手になるべく、大学進学を決めます。
文句なしのドラフト1位へ
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/07/gazo/G20110507000768330.htmlより引用
東海大学へと進学した菅野選手は、この4年間でドラフト1位で指名されるにふさわしい選手へと成長を遂げることになります。
1年時には春のシーズンから試合に登板し、秋からは先発を任されるまでに成長します。
2年の夏には日米大学野球の代表に選出され、東京ドームで153キロを計測。
秋のリーグ戦では20奪三振という連盟新記録を樹立するなど5勝を挙げ、MVPを獲得。
3年時には、春秋通算11勝無敗という成績を残し、秋の防御率は脅威の0.14と無双状態でした。また、大学選手権の準々決勝では、7回参考ながら同志社大をノーヒット・ノーランに抑え、出場した世界大学野球選手権では自己最速の157キロを計測したのです。
最終学年となってもその勢いは止まらず、春には、前年秋から継続した連続無失点のリーグ記録を53回まで更新、連続自責0の記録は86回まで延ばし、さらにリーグタイ記録となるシーズン5完封を記録するなどの活躍を見せます。
大学通算では37勝4敗、防御率0.57という圧倒的な成績を残し2度のMVPを獲得、2年から4年までの6季は最優秀投手に輝きます。
160km/hに迫る勢いのストレートと見事なまでのコントロールに加え、高速スライダーと時には球速を抑えたカーブを織り交ぜ相手バッターを手玉にとる姿は、まさにエースと呼ぶにふさわしい姿でしょう。
その活躍の裏には、すべてがピッチングにつながることを意識し、走り込みやウエイトトレーニングをはじめとする様々なメニューに本気で取り組み、むやみと高い負荷をかけるだけではなく、上半身と下半身、右と左などといったバランスを均整に保つところまで意識し日々を過ごしていた菅野の努力がありました。
菅野選手曰く大学時代の体重は入学時から15キロほど増えたそうですが、筋肉量を計ると左右差がまったくなく、対称なんだそうです。
そんな活躍を見たプロのスカウトたちが菅野を放っておくはずがありません。
しかしながら菅野選手自身は、幼い頃から原辰徳の影響でジャイアンツへの憧れを抱いており、プロ入りするならジャイアンツ一本という思いを胸に秘めていました。
まさかの1位指名
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191010-11より引用
そんな菅野選手の思いは他球団のスカウトも承知しており、ジャイアンツ以外の11球団は指名には踏み切らないだろうと思われていました。
そんな中迎えた2011年のドラフト、入札発表順が8番目だったジャイアンツは周囲の予想通り菅野選手に入札します。
間違いなくジャイアンツの一本釣り。
その場に居合わせた全ての関係者が皆そんなことを考えた次の瞬間、予想だにしない展開が起こります。
入札発表順9番目の日本ハムが菅野に入札。
会場にはどよめきが起こり、何とも言えぬ拍手が湧き起りました。
抽選の結果、日本ハムが交渉権を引き当て、菅野選手が幼少期から抱いていたジャイアンツ入りの夢は、儚くも散ることとなりました。
その瞬間、唇を噛みしめた菅野選手の表情からは、22歳という若者が背負うには大きすぎた様々な思いをうかがい知ることができました。
ドラフトから約1ヶ月後、菅野選手は日本ハムへ入団しない旨を伝え浪人生活を送りながら翌年のドラフトを迎えることを決めます。
この決断には当時多くの批判の声があったことは確かです。
悲願のジャイアンツ入り
https://www.sanspo.com/gallery/20201127-DCEGAGS3TJOY3M7L6UEMFNM7HI/より引用
しかしながら、自身の夢を叶えるためにそんな批判をも力に変え1年間必死にトレーニングを積んだ菅野選手は翌年、念願のジャイアンツ入りを果たしました。
ジャイアンツに入団後は、1年目からローテーションを守り13勝を挙げる活躍を見せ、チームのリーグ優勝に貢献。
翌年は防御率2.33を記録しMVP、最優秀選手、ベストナインに選ばれ自身2年連続となるリーグ優勝も果たしました。
2017年には17勝を挙げ、自身初となる最多勝と沢村賞を獲得。
また、この年に行われた第4回ワールド・ベースボール・クラシックにも日本代表に選出され日本のエースとしてマウンドに立ち、負けたら終わりの準決勝アメリカ戦で、強打のアメリカ打線を6回1失点、被安打3、与四球1、奪三振6に抑える圧巻の投球を見せ、当時アメリカ代表の監督を務めたジム・リーランドは「菅野はメジャーリーグの投手だ」と絶賛しました。
2018年には2年連続となる最多勝と沢村賞を獲得したほか、分業制となった今では珍しい10完投とシーズン登板200イニング以上を達成するなど、エースと呼ぶにふさわしい成績を残しました。
そんな輝かしい実績を引っ提げ、菅野選手は2020年のオフにポスティングによるメジャー挑戦を表明しました。移籍先はすぐに決まると思われていましたが、その後なかなか吉報は届かずに菅野選手はメジャー挑戦を断念することになりました。
その理由としては新型コロナの影響でメジャー球団の経営が圧迫されていたこと、当時31歳という年齢が懸念されたことなどが挙げられます。
そんな経緯でジャイアンツに残留した菅野選手でしたが、2023年までの3シーズンは怪我などの影響もあり、本来の姿とはほど遠い成績に終わります。
並々ならぬ決意を持って挑む2024年シーズン。自身でも「プロ12年目で一番コンディションがいい」と語り、試合終盤になってもストレートは150km/hを計測するなど、ここまでは復活を予感させる活躍を見せています。
まとめ
野球人生においては決して順風満帆なことばかりではありませんでしたが、壁にぶち当たる度に自身の力で新たな道を切り開いてきた菅野選手。
そんな菅野選手であれば、これから先も良い意味で私たちの期待を裏切る活躍を見せてくれるでしょう。
今シーズンは背番号18を着けた菅野選手が、マウンド上で躍動する姿が見られることを期待したいですね。
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