みなさんこんにちは!
野球大好きモルツです☆
今回は、埼玉・春日部共栄高校から2000年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した中里篤史さんについてご紹介していきたいと思います。
中里選手は、なぜ悲運のエースと呼ばれているのか。
輝かしい過去の栄光から、怪我によって引退に追い込まれることになった半生について振り返っていきます。
ぜひ最後までお付き合いください!
プロ通算2勝のみも…快速球で強烈な印象を残した「悲運の天才投手」とは | 野球コラム – 週刊ベースボールONLINE (findfriends.jp)より引用

- 名前はモルツ
- 野球歴は30年
- 学生時代のポジションは主に二塁手
- 小学校1年~高校3年までは、野球漬けの日々を送っていた
- 中学時代はシニアリーグに所属し、全国大会出場
- 高校時代、春は県大会優勝、夏は県大会準優勝の経験をもつ
- 現在は草野球やソフトボールを楽しんでいる
- 中里選手はどんなプレイヤーだったのか
- 中里選手の輝かしい過去
- プロ入り後の苦悩
- 現在の中里選手
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選手としての特徴
埼玉県出身の中里選手は、小学校2年生の頃から野球を始めました。
ピッチャーをはじめたのは中学時代からで、その後、埼玉県の強豪・春日部共栄高校に進学します。
中里選手の最大の特徴は、なんと言ってもストレートの素晴らしさ。
浮き上がるようなストレートを武器に強打者たちから次々と三振を奪い、史上最高のストレートを投げる投手と言っても過言ではありませんでした。
ストレートだけで三振が取れる投手と言われており、高校時代は県内でその名を知らぬ人はいないほど有名で、プロ入り後も将来を有望視された選手でした。
輝かしい栄光
ここからは中里選手の輝かしい栄光の数々をご紹介していきます。
高校時代
【実況・小野塚康之 時代を超える名調子】縦断高校野球列島(11)埼玉 甲子園をかけた一戦、中里VS坂元の忘れられない投手戦(3/4ページ) – zakzak:夕刊フジ公式サイトより引用
中里選手が入学した春日部共栄高校は、春夏通算8度(2024年現在)の甲子園出場を誇り、平成5年の夏には準優勝を果たしている強豪。
監督は、来年3月で勇退を表明している本多利治さんです。
今までに14人のプロ野球選手を輩出し、選手育成には定評のある本多監督が入学当初の中里選手の素質に惚れ込み、「じっくりと育てていきたい投手だった」と語っています。
そんな本多監督の方針もあり、ストレートで三振を奪える投手も目指すため、変化球はカーブのみしか投げず、とにかくストレートの質を磨くことに専念しました。
その結果、高校2年時には球速が140km/hを記録し、秋には5回参考記録ながら全15のアウトを三振で奪う完全試合を達成するなど、徐々にその存在を世に知らしめ、3年生になる頃には関東No.1投手として騒がれ、プロ野球12球団から注目される選手となったのです。
そんな中里選手が最も脚光を浴びたのは、3年生として迎えた夏の大会の決勝、浦和学院高校戦でしょう。
2000年7月30日に行われたこの試合は、浦和学院のエース・坂元弥太郎(元ヤクルトなど)との投げ合いということもあり、県営大宮公園野球場には2万人の観客が詰めかけたほどです。
大方の予想通り、投手戦となったこの一戦は1対1のまま延長戦に突入。
最後は、10回裏に浦和学院の坂本選手がサヨナラのホームを踏み、中里選手の高校野球は幕を閉じたのです。
この一戦については本多監督が後にこのように語っています。
「中里をどうしても甲子園に連れていきたかった」
長年多くの選手を見てきた本多監督でありますが、その中でも中里選手は特に思い入れのある選手だったのでしょう。
決勝戦の映像はこちら↓
プロ入り後
2000年のドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受け、見事にプロ野球選手となった中里選手。
1年目には、フレッシュオールスターに選出され3イニングを無失点に抑える活躍を見せ、見事に最優秀賞を受賞しました。また、この試合でストレートの球速は150km/hを記録するなど、今後の活躍に期待を抱かせる内容となったのです。
その後、シーズン終盤には一軍に昇格し、対ジャイアンツ戦で一軍デビューを飾りました。惜しくも1年目での初勝利とはなりませんでしたが、二軍では7勝をマークするなどまさに飛躍の1年となったのです。
そんな中里選手に対しては他の選手たちからも称賛の言葉が相次ぎ、同僚の朝倉健太選手は、「中里は、評判通り、いやそれ以上かもしれない」と語り、ジャイアンツの松井秀喜は、「スピードがある」、同じくジャイアンツの清原和博は、「ええ投手になるで」と中里選手を絶賛するコメントを残しています。
中里選手のプロ初登板の映像はこちら↓
人生を変えた2002年2月20日
このままスター街道を駆け上がっていくかと思われた中里選手ですが、2年目を迎えた2002年、中里選手の野球人生を一変させることになる、ある出来事が起こったのです。
この年の春季キャンプ直後から肘の不調を訴えていた中里選手は、その後もなかなか調子が上がらず約10mの距離から30球ほどを投げるのが精一杯の状態でした。
徐々に状態は回復へ向かっていったものの、2002年2月20日、実質、中里選手の野球人生が終わりを告げることになったある出来事が起こります。
この日、チームミーティングを終えた中里選手は1階のロビーへ向かうため、階段を降りていました。
そのとき、急勾配の階段で足を滑らせてしまい、咄嗟に利き腕の右手で階段の手すりを掴んだ中里選手。その直後、右腕が捻れるような形で転倒し、その衝撃で右肩を脱臼してしましまいます。
翌日、病院で検査を受けると、診断結果はまさかの「右肩関節唇損傷」と判明。その後に行った詳しい検査では、「右肩関節包損傷」も併発していることがわかり、シーズンを棒に振ることになりました。
それからは長いリハビリ生活に入りますが、翌2003年の秋には、リハビリの一環で行っていたプールトレーニングの最中に再び右肩を故障。
続く2004年も、1度も登板することなくシーズンを終えることになりました。
野球以外のところで致命的な大怪我を負ってしまったということは、非常に残念でなりません。
4年ぶりの1軍マウンド
2005年。
この年のシーズン終盤、2001年以来4年ぶりとなる一軍マウンドに帰ってきた中里選手。
10月1日の対広島戦、ビハインドの6回表からマウンドに上がった中里選手は、1イニングで2三振を奪うなど三者凡退に抑える活躍を見せます。また、ストレートの球速も全盛期に近い、148km/hをマーク。
その後、チームは逆転勝利を収め、見事にプロ初勝利のプレゼントまで付いてくるなど、ここから本来の力を発揮してくれると周囲の期待は膨らむばかりでした。
非常な戦力外通告
プロ初勝利を飾り、そのまま波に乗っていきたかったところですが、やはり怪我の影響は否めず、その後のシーズンでは目立った成績を残すことができずに2009年、中日ドラゴンズから戦力外通告を受けることとなります。
その後、ジャイアンツが手を差し伸べ現役選手としての道は繋がりましたが、やはり本来の球威が戻ることなく2011年、2度目の戦力外通告を受けることとなり、トライアウトを受講するも獲得する球団は現われず、そのまま現役を引退することとなりました。
プロでの通算成績は34試合に登板し、2勝2敗、防御率4.65。
あの大怪我さえなければ、日本を代表するエースになっていた可能性もある中里選手。
怪我さえなければ・・・という言葉しか浮かんでこないほど、悔やまれる結果となってしまいました。
落合監督とのエピソード
中里選手がプロ入り4年目の2004年から中日ドラゴンズの監督に就任したのは落合博満さん。
そんな落合監督は、中里選手の非凡なセンスに惚れ込んでいた1人です。
その象徴的なエピソードとして、2003年の秋季キャンプ中に、翌シーズンからは背番号が入団時から付けていた28から70へ変更されることが決まっていた中里選手に対し、落合監督はこのように声をかけたと言います。
「今のお前はこの背番号じゃない。番号は大きくなるけど、怪我が治ったら好きな背番号をつけさせてやるから。必ず若い番号に戻してやる」
その後、2005年に一軍復帰を果たしたシーズンオフ、落合監督は中里選手を監督室に呼び、「好きな番号を言え」と伝えます。
「18番に憧れがあります」
そう中里選手が答えると、翌年からは本当に18番に背番号を与えられることになったのです。
このエピソードから、落合監督が中里選手に対して抱いていた期待度の高さをうかがい知ることができます。
現在の中里選手
現役引退後は、ジャイアンツのスコアラーとして活躍し、チームの裏方としての日々を過ごしています。
そんな中里選手ですが、実は中里選手に憧れを抱いている現役プロ野球選手も多く、千葉ロッテマリーンズの石川歩選手や、中日ドラゴンズの森博人選手もその1人です。
まとめ
怪我をするまでの中里選手は、周囲を驚愕させるようなストレートを投げ、それはまさに日本でNo.1と言っても過言ではありませんでした。
そのストレートに様々な人が夢を抱き、中里選手本人も手応えは感じていたことでしょう。
誰もが予想だにしていなかった形で、現役生活を終えることになった中里選手ですが、その存在は後世へと語り継がれているのです。





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