【清原正吾】偉大な父との絆と野球への思い

選手エピソード

みなさんこんにちは!

野球大好きモルツです。

今回は、現役通算525本の本塁打を放った清原和博さんを父に持ち、現在は慶応大学で野球を続けている清原正吾選手についてのエピソードを振り返っていきたいと思います。

サラブレッドの血を引き継ぐ正吾選手ですが、実は野球を遠ざけていた過去がありました。

なぜ正吾選手は野球から身を引いたのか、そしてなぜ再び野球に打ち込むことを決意したのか。

今回はその謎に迫っていきたいと思います。

【プロフィール】

生年月日:2002年8月23日

出身地:東京都

身長/体重:186cm/90kg

■幼少期

子供の頃から父のプレーする姿を目にしていた正吾選手は父・和博さんに憧れを抱いていました。

「あれだけ観客を沸かせる力を持っている。自分もそういう人になりたい」

憧れの父の背中を追うように慶應義塾幼稚舎3年の頃からオール麻布という軟式チームで野球を始めます。

野球を始めるタイミングとしては少し遅い気もしますが、正吾選手の意思が固まるまで、無理を強いることはしなかったのかもしれませんね。

在籍していたオール麻布は東京都では名の知れたチームで、正吾選手はセカンドのレギュラーとして活躍していました。

■野球を遠ざけたきっかけ

中学に進学した正吾選手は、野球部ではなくバレーボール部に所属します。

彼はなぜ野球という道を選ばなかったのでしょうか。

そのことについて正吾選手はこのように語っています。

「大スターの長男という重圧から少し目を背けたかったのと、事件当時は父親を嫌いになって、まず野球の道から外れたくて」

確かに、野球を続けることで常に父親と比較され、時には心ない言葉を浴びせられることもあったことでしょう。

そんな重圧から逃げ出したくなる気持ちになることは、ごくごく自然なことだったのかもしれません。

また、もう1つの理由として挙げられている【事件】とは、やはり父・和博さんが逮捕されてしまったことでしょう。

この事件当時は家のカーテンも開けられず、裏口から出入りしたりしていたそうです。

当時中学生だった少年には、この出来事はかなり堪えますね。

そんな理由もあり高校でも野球には携わることなく、アメリカンフットボール部に所属しました。

■父親との再会

正吾選手が高校2年の頃、父・和博さんと5年ぶりの再会を果たします。

このとき和博さんは正吾選手に対し「ごめんな」と繰り返し、泣きじゃくっていたそうです。

そんな父親に「大丈夫だよー」と笑顔で返した正吾選手。

これは本心だったのかはわかりませんが、父親のせいで辛い思いも幾度となく経験したであろうことは想像に難くない状況で、このような対応ができる正吾選手には尊敬の念しかありません。

また、昔の父親は本当に怖かったらしく、そんな父親が自身が起こした事件を機に、心を入れ替え優しくなった姿を見て、「長男としてお父さんをもう1回元気づけてやろう」と決意したのだと言います。

■再び野球に引き寄せられたきっかけ

正吾選手が高校3年生になる頃は、コロナ渦で様々な行動が制限されている時期でした。

当然部活動も活動休止を余儀なくされ家にいる時間が増えていた頃、当時中学生だった弟・勝児さんが高校で野球をやることを決意し、そんな弟の練習に父親と共に付き合っていたそうです。

キャッチボールをしたり、ノックを打ったりしているうちに、それまで止まっていた時計が動き出したかのように、野球への情熱が湧きあがってきたのだと言います。

また、父親の事件以降、バラバラになった家族を再び結びつけるため、笑顔にするために野球をやろうと決意したとも語っています。

■野球の道に戻る決意

大学で野球部に入部することを決意した正吾選手でしたが、慶応大学野球部といえば毎年のようにプロ野球選手を輩出している名門中の名門。

そんな環境で6年間のブランクがあり、ましてや硬式球での野球経験もない選手がプレーするのは無謀にも近い選択でした。

それは、慶応大学野球部の堀井監督も感じていたそうで、入部を希望する正吾選手に対して

事前に忠告をしたほどです。

「山あり谷ありの4年間になると思う。苦労するよ」

「周囲からは常に清原の長男という目で見られると思う」

そんな堀井監督の言葉に対し、正吾選手はしっかりと目を見てこう答えたそうです。

「6年間のブランクがあることはもちろん、清原という名前で野球をする以上、それも覚悟しています」

正吾選手のその決意を聞いた堀井監督は、野球部への入部を快諾したのでした。

■6年間のブランクの影響

入部して間もない頃は、守備練習で自分だけエラーをしても何も怒られないというような周囲の気遣いにも窮屈さを感じることもあったそうです。

また打撃練習では初めて握る木製バットを何本も折ってしまったようで、徐々に周囲との力の差を感じるようになり落ち込むこともあったと語っています。

また、6年間投手の投げる球を打ってこなかった影響で、実践の中でタイミングを合わせることには相当苦労したそうです。

このことについては堀井監督も、「打者はいかに自分の間で打つかですが、清原もそこがカギになると思います」と語っており、経験不足の影響は否めませんでした。

■徐々に開花する才能

2年秋のリーグ戦で公式戦デビューを果たした正吾選手。

ましてや舞台は伝統の早慶戦。

4対8と4点を追う5回、1死2塁の場面で代打で出場しますが結果は残念ながらライトフライに倒れました。

その後、3年生になった正吾選手は、春のリーグ戦で開幕から7番ファーストで出場を果たします。

そして迎えた3日目、法政大学との一戦では、当時プロ注目投手だった尾崎投手からレフト前に弾き返し、公式戦初安打を記録しました。

ただ、この年放ったヒットはこの1本のみに終わり、ここまでの大学3年間での公式戦通算成績も9打数1安打と、周囲の期待とは裏腹に結果を残せずにいました。

そんな中迎えた2024年の大学最終シーズン。

開幕から、父が現役時代に背負った背番号「3」を身につけ、父と同じファーストの守備位置に就く正吾選手の姿が神宮球場にはありました。

また、チームの4番を任され、5月4日の対立教大学戦ではフェンス直撃となる決勝二塁打を放つなど4打数3安打の活躍を見せます。

正吾選手がコツコツと積み上げてきた努力の結果が、ようやく芽を出し始めたのです。

この試合後のインタビューでは「清原ジュニアじゃなくて、清原正吾の名を、みんなに響かせたいなと思います」と語り、一人の野球選手としてのプライドをのぞかせました。

■進路はプロ一本

「最後の1年間で目指せるものであれば目指したいなと思います」

正吾選手がこのように語っているように、最終学年となった今季も一切、就職活動していないそうです。

プロのスカウトが、「ドラフト候補と言われる投手たちから本塁打を何発も打てば、素材のよさも合わせて評価される」と語っているように、今年の成績次第では十分にプロ入りもあり得るのではないでしょうか。

■まとめ

父親の逮捕という、非常に辛い経験をしてきた正吾選手でしたが、決して腐ることなく真っ直ぐに人生を歩んできました。

それだけではなく【自分が家族の絆を結び直すんだ】という強い決意の基、野球に再挑戦し、ブランクをものともせずプロにも注目される存在となった正吾選手には頭が下がる思いです。

将来、プロの世界で父・和博さんと同じように、特大のホームランを放つ正吾選手の姿を是非とも見てみたいものですね。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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