【読売巨人軍】歴代助っ人を紹介!

球団エピソード

みなさんこんにちは!

野球大好きモルツです☆

本日は名門、読売巨人軍の歴代助っ人について解説していきたいと思います。

ぜひ最後までお付き合いください!

はじめに

【読売巨人軍】

それは時代は変われど、いかなるときでも勝つことを宿命付けられた球界きっての

大人気球団です。

長嶋茂雄、王貞治、松井秀喜・・・

過去に、名だたる大スターを多数輩出してきたジャイアンツですが、今回はそんなジャイアンツで活躍した、助っ人外国人について振り返ってみたいと思います。

きっと今もなお、みなさんの記憶に残り続けている選手も登場するのではないでしょうか。

ウォーレン・クロマティ(1984〜1990)

まず紹介するのは、野球ファンなら1度は耳にしたことのあるであろうこの選手、「ウォーレン・クロマティ」

在籍した7年間での通算成績は779試合に出場し、打率.321、951安打、171本塁打、558打点、26盗塁。

この成績を見ても、ジャイアンツ史上最強の助っ人と賞されることに異論はないのではないのでしょうか。

メジャー通算1063安打の実績を引き下げ、現役バリバリのメジャーリーガーとしてジャイアンツに入団したクロマティは、1年目から見事に周囲の期待に応えることになります。

1年目、打率280、35本塁打、93打点の活躍を見せたクロマティは瞬く間にチームの顔としてファンからも愛される存在となりました。

そんなクロマティですが、成績もさることながら彼が繰り出すパフォーマンスにも注目が浴びせられたのです。

クロマティは自身が打点を挙げた次の回に外野の守備位置に就く際、外野観客席のジャイアンツファンに向かって万歳三唱をするパフォーマンスを見せました。

このパフォーマンスは「バンザイコール」としてファンの間ではおなじみのものになったのです。

また、クロマティといえば中日ドラゴンズ戦での乱闘シーンを思い出す方も多いのではないでしょうか。

1987年6月11日、ドラゴンズの宮下昌己から背中に死球を受け、その後宮下がマウンド上で謝罪しなかったことに激高したクロマティは、マウンド上の宮下に駆け寄り、顔面に右ストレートを放ったのです。

この一撃に端を発し、両軍入り乱れての大乱闘騒ぎとなりました。

このときのシーンは現在でもことあるごとに放送されることから、当時を知らない方々でも「クロマティ=乱闘」というイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。

そんな横暴なイメージのあるクロマティですが、本来は非常に陽気な性格であり、現役引退後は解説者としてメディアに登場する傍ら、キャンプなどでは若手選手たちに指導を行い、後進の育成にも尽力しています。

シェーン・マック(1995〜1996)

1995年、ジャイアンツはメジャーリーグのツインズで世界一を経験したこのもある大物外国人を獲得しました。

契約は2年総額8億円とも言われ、当時の日本球界では破格とも言える契約でした。

来日時のメジャー通算7年間の成績は、794試合に出場し、打率.299、71本塁打、352打点、80盗塁。

まさに現役バリバリのメジャーリーガーと言えるでしょう。

ジャイアンツと大型契約を結んだ大物助っ人、その名は「シェーン・マック」

マックの代名詞といえば俊足を生かした華麗な守備ではないでしょうか。

ダイビングキャッチやフェンスに激突しての好捕など数々のファインプレーでファンを魅了しました。

また、打撃に関しては当時ジャイアンツで共にプレーしていた落合博満から感銘を受けていたと言われています。

96年シーズン、ジャイアンツは70試合を消化した時点で首位の広島とのゲーム差は11.5ゲームと、7月の時点で既に自力優勝の可能性が消滅してしまう非常に苦しい状況でした。

そんな中マックは、打率.293、22本塁打、75打点、12盗塁の成績を収め、なんとこの年、11.5ゲーム差をひっくり返しジャイアンツはリーグ優勝を達成。

後に語り継がれることになるメークドラマの一翼を担ったのです。

入団当初のマックはメジャーリーグでの実績から、日本での怠慢プレーを危惧されていましたが、そんな心配とは裏腹に、異国の地で成功を収めようと真摯に野球に取り組む超優良助っ人でした。

そんなマックが、ジャイアンツに在籍した2年間で残した成績は247試合に出場し、打率.284、273安打、42本塁打、127打点、24盗塁。

十分に助っ人としての役割を果たしますが、やはり高額な年俸がネックとなり残念ながら2年で退団する運びとなりました。

しかしながら、今でもマックが残した全力プレーの雄姿が目に焼き付いているファンの方も多いのではないでしょうか。

バルビーノ・ガルベス(1996〜2000)

1996年から2000年までジャイアンツでプレーしたバルビーノ・ガルベス。

日本での通算成績は106試合に登板し、46勝43敗、443奪三振、防御率3.31というものでした。

ただ、みなさんのなかではガルベスといえば活躍した記憶よりも暴君な印象の方が強いのではないでしょうか。

1998年7月31日の対阪神戦で、ガルベスは今も語り継がれるある事件を起こしたのです。

6回、ガルベスが坪井に対し、カウント2ストライク1ボールから自信を持って投じた145キロの内角ストレートを、橘高球審がボールと判定。この直後、坪井に右翼越え本塁打を浴び、長嶋監督が橘高球審に投手交代を告げました。

交代を告げられたガルベスは、自信を持って投じた1球をボールと判定されたことが直後の本塁打に繋がったんだという怒りをマウンド上で露わにします。

その後、球審の橘高に詰め寄ろうとするガルベスを、なんとかベンチ前まで連れてきた次の瞬間!

ガルベスが尻のポケットからボールを取り出し、橘高に投げつけたので

幸いにもボールは橘高の頭上へ逸れ、大惨事になることは免れましたがこの行為でガルベスは一発退場。

その後半年間の出場停止処分も下り、当時監督だった長嶋が頭を丸める騒動に発展しました。

この一件について後にガルベスはこのように語っています。

「お前ら、間違ってるぞ。あれは審判に投げたんじゃない」

「あれはボールボーイに返しただけだ」

いや、あれは誰がどう見ても審判を狙いにいっています。

最初は自身を正当化していたガルベスですが、最後は非を認めたうえでこう答えました。

「あの事は正直、反省してる。本当に悪かったと思ってる」

「ゴメンナサイ」

最後は日本語で当時の行動について謝罪しました。

そもそもガルベスは審判団に対し敵対心があったようで、同年5月の対横浜戦で球審を務めた谷に対し「ヤツは横浜の味方か盲目だ」と大批判しています。

実際に橘高球審にボールを投げつけ、半年間の出場停止処分を受けた直後にもこのようなコメントを残しています。

「甲子園じゃ鬱積していた不満とストレスが、火山みたいに爆発した。審判の全員が悪いわけじゃないけど、あの橘高と谷の判定は頭の中にある。橘高審判への暴挙は後悔してない。あれはただの事故さ」

当時はお騒がせ外国人の印象が強かったガルベスですが、現在では母国のドミニカ共和国に戻り、10年ほど前からベースボール・アカデミーを創設し、子供たちに野球を教えているようです。是非とも野球の技術だけでなく、自制心を保てる選手の育成を期待したいところですね。

スコット・マシソン(2012〜2019)

「スコット鉄太郎」

生粋の野球ファンならピンとくるワードではないでしょうか。

主に2012年から2014年まで、ジャイアンツの勝利の方程式を担った3選手の頭文字から取った名前です。

ここからはその中のひとり「スコット」を担った選手、「スコット・マシソン」についてご紹介していきます。

マシソンは「鉄」こと山口鉄也、「太郎」こと西村健太郎と共にジャイアンツの屋台船を支えました。

この3人がフル稼働していた3年間でジャイアンツはリーグ優勝3回、日本一1回とまさに無敵を誇るトリオだった訳です。

その中でもマシソン自身は2013年にリーグ優勝を決めた対広島戦が最も印象に残っているようで、後にこのように語っています。

「あの広島戦はすごくよく覚えているし、起用してくれた原監督に本当に感謝をしています。ああいう場面で出してくれたその意味の大きさを感じています」

マシソンがこのように感謝の気持ちを口にするのには訳がありました。

この年は、7回と8回を状況に応じて、マシソンと山口が投げ、9回に西村が締めるという継投パターンがほとんどでした。

しかし、優勝を決めた広島戦では、9回に先頭のキラを山口が、2人目のエルドレッドをマシソンが、そして最後の松山を西村が仕留めるという原監督の粋な計らいあったことで、優勝をさらに印象深いものにしました。これは原監督の年間を通して働いてくれた3人への感謝の表れだったようです。

また、長らくジャイアンツの正捕手をつとめ、現在のジャイアンツ監督でもある阿部慎之助とも固い絆で結ばれていました。

2019年、この年限りで引退を表明した阿部慎之助は引退会見で記者から「捕手としていま、受けてみたい投手は?」との問いにこのように答えました。

「たくさん受けたいなと思う人はいるんですけど……現時点でのチームメートなら、日本にも長くいるマシソンかなぁ。いろんな思い入れがあるので」

そしてその理由については次のように語っています。

「たくさん優勝しましたし、僕の首に激痛が走ったときも投手はマシソンでした。マシソンの剛速球を打者がファウルチップしたのを食らって、そういう捕手を離れる運命になったので……」

阿部慎之助の選手としての晩年は、持病の首痛もありファーストでの出場がほとんどでした。

そしてその首痛の要因となったのがマシソンが登板をした試合だったのです。

マシソンは来日した当初、荒れ球で、春季キャンプの紅白戦でチームメートの頭にぶつけ、病院送りにしたこともありました。そんなときに阿部慎之助は「そんなに全力で投げようとしなくていい。適度に力を抜いて」とマシソンへアドバイスを送りました。

マシソンにとって阿部慎之助との出会いは運命を変えた分岐点でもあり、自分の野球人生を成功へと導いてくれた恩人でもあります。

マシソンが日本で421試合登板、27勝29敗54セーブ174ホールド、492奪三振、防御率2.46

という輝かしい成績を収めることができたのも、阿部慎之助という男がいたからこそなのかもしれませんね。

まとめ

さて、いかがだったでしょうか。

今回は読売巨人軍の歴代助っ人について解説してきました。

名門たる故、並の成績では認めもらうことのできないプレッシャーの中、各々の個性を十二分に発揮し見事にファンからも愛されることになった助っ人たち。

今の時代では考えられないような破天荒さを兼ねそろえてた助っ人もおりましたが、当時はそんなプレーも野球の醍醐味の1つだったことは間違いありません。

次はどんな助っ人外国人が野球史に名を刻むのか、野球ファンとしては目が離せませんね。

それではまた次回、お会いしましょう!

コメント

タイトルとURLをコピーしました